2012年10月30日火曜日

「愛の残像」 * 愛の桎梏か芸術の罠か *

女優はエレベータの無いアパルトマンに住んでいる。その女優を撮るため、写真家は機材を担いで階段を上る。
そうして出会ったキャロルとフランソワ。二人はたちまち恋に落ちた。
キャロルには、ハリウッドで映画製作をする夫がいるがパリに戻ることは少なく、彼女の気持ちは冷めている。どこか投げやりで生きることに倦み、それでいて内に抱えた激しい感情を扱いかねているような、そんな不安定さを纏っているキャロル。
フランソワは思いがけない恋の訪れに、ただ無邪気に身を任せただけのように見える。
キャロルの苦悩と孤独には無頓着なままで。
「わたしが病気でも愛せる? 頭が狂ったとしても?」「永遠に愛してる?」という問いに「それ以上だ。そのずっと先まで」と答えるフランソワ。
 ところがある日突然夫が帰ってきて、服を身につける間もなく部屋を逃げ出した時から、彼はキャロルから遠ざかる。恋の始めの高まりが幻滅に変わるのはたやすい。そういうことだろうか?

フランソワを待ちわびながら、キャロルは次第に精神のバランスを崩していく。
この間、二人は電話やメールではなく手紙を交換する。

舞台は現代でありながら、この映画全体からクラシックな印象を受ける理由は、このことばかりでなく撮影手法自体(と言っても知識不足ゆえあくまで印象だが)もそうである。最新技術を駆使した映像も過激な描写も無い。ジャン・コクトーのシネマトグラフやマン・レイの写真を彷彿とさせる、シュールリアリズムの時代の趣きがあるのだ。そして全編に流れるヴァイオリンとピアノの曲は、古典的かつ普遍的な男女の恋愛悲劇に似つかわしい。

 キャロルは精神科の病院に入院するが、その治療()には少なからず驚かされた。今でもあのような措置がされているのだろうか。

病院にキャロルを見舞ったフランソワが彼女を連れ出そうとする場面で、大島弓子の『ダリアの帯』が即座に思い浮かんだ。その結末はあまりに異なっているけれども。

やがてキャロルは退院したが、フランソワは戻らない。すでに別の恋人が居るのだ。失意のキャロルは酒と薬に溺れるようになり、遂には死んでしまう。

フランソワは果たして、ありふれた不誠実な男なのか。
『ダリアの帯』では、妻を病院から連れ戻した後、夫は全てを引き受ける。互いが老いて死ぬまで。そして最後は超自然的とも言えるような境地に至る。これは女性にとって理想のひとつかも知れない。しかし男性であるフィリップ・ガレルによるこの映画は、もちろんそのようには進まない。(原作はフレデリック・パルドの小説『スピリット』)
 恋人から妊娠したと告げられて、すぐに「こどもなんて無理だ」ということばが出るフランソワ。ここは、斉藤美奈子の『妊娠小説』ならば鋭く突っ込みを入れる所だろう。
最初の動揺が治まった頃にはこう尋ねる。「こどもができても僕への愛情は変わらない?」なんという臆面もない幼さ。責任だとか父親としての自覚云々どころではない。思わず天を仰ぎ溜息つきたくなった。似たようなセリフは、日常のどこにでも転がっている。    

それでもフランソワは知人から家庭を持つ喜びや幸福を語って聞かされる内に、結婚に前向きになっていくように見えたのだが。

“一組のカップルが誕生するということは歴史が出会うことだ”。これはフィリップ・ガレルのことばである。しかし皮肉なことにフランソワは結局、今の恋人と共に歴史を作っていくことを選ばない。こどもを持つことへの恐怖、またそれによってもたらされる変化への恐れなのか。そこにキャロルへの贖罪の意識が幾分か入り交じっていたのか。        

フランソワは鏡の中にキャロルの幻影を見出す。一見するとキャロルの彷徨う魂が亡霊となり、黄泉の国へフランソワを連れ去ろうとするかのような描写である。(これはまるでコクトーの『オルフェ』ではないか)けれども、むしろ幻影を呼び寄せたのはフランソワの方だ。自らが置き去りにしたはずのキャロルを、逃げ場所にしようというのか。

あるいは彼はこの先に待つ人生の重さに気づくことで、遅まきながらキャロルの愛と死の重さをも同時に知ったのだろうか。
もし彼を愛の殉教者と捉える人がいたら、二人はこれで永遠に結ばれたと言うかも知れない。キャロルが望んだように?

そんなお伽噺が、絶望の果てに死んだ彼女を救うとは思えない。

フィリップ・ガレルはかつて、ニコの夫だった。
モデル、女優、そして歌手。一時期ヴェルヴェット・アンダーグラウンドにも在籍していたあのNicoである。華々しい経歴と多くの愛の遍歴。ミューズ、アイコンと讃えられながら、薬物依存でボロボロになったニコの最後は痛ましいものだったらしい。映画の中で「絶望した人間は救えない」というセリフが出てくる。彼女の『The nd』を聴いたのはとうの昔になったが、歌い手の孤独の凄まじさが伝わってくるようで戦慄したのを覚えている。男性の手による作品は女性を描き得るのだろうか? 女性をインスピレーションの源泉とする芸術作品の中の多くは、素晴らしい傑作であれ醜悪な駄作であれ、そこに描かれた女性像については畢竟、男性自身がそう望んだところのファンタジーであり生身の女性の現実とは別である。



美は思想を嫌う ”~ジャン・コクトー。
このことばにうなずくこともある反面、そうとも限るまいと思うのだ。おそらくその両者が牽制しあうことなく並び立ち、一つに結実した例は稀なのだろう。
時には絵画のように見える静謐で深い陰影を湛えた画面、詩のように語られることばの響き。あえて意味など問わずただそれを見る喜びに束の間浸り、まどろんでいたいという気にもさせる。この夢幻的な映画は、そんな誘惑に満ちている。芸術という名の罠なのかも知れない。                   (2012.10. 8 矢車菊 香)

2012年10月26日金曜日

今日のこと                              「さかいボランテイィア市民活動フェスティバル」の準備

矢車菊香さんからいつもの映画評が届いているのですが、なかなかアップできずにごめんなさい。貴重な映画評をアップする前に、ちょっと今日のことを・・・・・。

明日27日は堺市総合福祉会館で行われる「さかいボランテイィア市民活動フェスティバル」に今年もNPOFC学会・堺は参加します。参加するのは、まず5階の活動紹介の展示コーナーと3階で13時~15時の間行う「自分を知る」コーナー。ここではアサーティブ度チェックをします。チェックと言えば、5階の展示コーナーにも「うつ」チェック用紙と「デートDV」チェック用紙を置いてあります。是非お試しください。

というわけで、今日はその準備をしたのです。

 まずフェミニストカウンセリング堺の講座室で、あれこれ準備。今まで参加したことのないメンバー3名でこんなのがあればいいかね、というものを、NPOFC学会・堺の引き出しから引っ張り出したり、切り張りしたり・・・・・・。

夕方になり、作品群(?)をトランクに詰め、福祉会館にGO!
会場に入って、3名がすぐに思ったこと。
・・・・・・「負けた!」・・・・



もうすでに準備ができている他のグループさんの力作の素晴らしいこと!きれいなこと!手がこんでいること!

それから3名のああやったり、こうやったりが始まりました。

だけど用意した作品(?)だけではどうにも賑やかにならない。そこで急遽、フェミニストカウンセリング堺から造花だの何だのを持ってきて、賑やかしに・・・・。その結果がこの写真です。

どうです?結構いいせんいっているでしょう?


明日お時間のある方は、是非NPOFC学会・堺
の力作展示をご覧にお出かけください。

実物を見たらわかると思いますが、写真は、「真を写す」もの、にも関わらず、実際よりさらに美しく見せてくれるような気が・・・・・

明日日曜日、10時からフェスティバルは始まります。詳しい情報は堺市社会福祉協議会のホームページ http://www.sakai-syakyo.net/fes2012/index.html  でご覧ください。模擬店が出たり、ステージでいろんなパフォーマンスが行われたり、で。お祭りの名にふさわしい賑やかさですよ。  (PON子)