2011年7月22日金曜日

「100000年後の安全」と「ミツバチの羽音と地球の回転」     * 震災後に観たふたつの映画をめぐって *    

                                       東日本大震災が起きてから4ヶ月が経とうとしている。
いつかは醒める悪夢ならあるいは映画の中の出来事だったら、と思わずにいられなかった光景は紛れもなく現実であり、それをどう受け止め何をしたら良いのか分からないままに日が過ぎた。新聞やテレビのニュースに釘付けになりインターネットで情報を探し、勉強会やデモに参加したり現地へ行ってきた人の話を聞いたり、本を読んだり義援金カンパしたり、せいぜいそんなことをしただけだ。
 季節は移り梅雨から夏へ。大雨や高温多湿が被災地の衛生状態を更に悪化させるのではないか。いまだに避難所生活を余儀なくされている人々のストレスは限界に来ていないか。         
 原発事故は収束するどころか深刻な状態が続いている。それが被災地の復興を妨げる原因にもなっている。放射能汚染さえなければ再開できたはずの、農業や漁業を始めとする地元の産業従事者が廃業に追い込まれる。線量値の高い地域に住む人々の健康、とりわけ子ども達への影響はどうなのか。情報が錯綜し確かな判断基準がない中、移住するにせよ留まるにせよ、多くの困難を伴うのだろう。待った無しの状況のはずだが、その解決の為に動くべき国の政治は又も混乱しているようで、何がどこまで進んでいるのかが見えてこない。
 そんなさなかに、原発に関連するドキュメンタリー映画を2本観た。

1本目は「100000年後の安全」。
フィンランドの放射性廃棄物最終処分場、オンカロが主役だ。
オンカロとは“隠された場所” という意味で、10万年は放射性物質が無害化するのに要する時間らしい。これは、その間壊れないことを想定して設計されたという、地下深く掘り進めながら建設中の貯蔵施設なのだ。
映画はマイケル・マドセン監督が、未来の人間に向けて語りかけるナレーションと
技術者や政府関係者、掘削作業員等へのインタビューを中心に進む。
 使用済みの“ゴミ”となってからも危険な放射線を出し続ける核燃料。(しかも10万年もの間?)そんなものをこの先ずっと使い続けることが果たして合理的だろうか。しかしここでの議論は、未来の人間がオンカロの扉を開けるか否か、現代の人間はどんな方法でメッセージを残せばよいかといったことに終始する。原子力発電そのものの是非については全くといっていいほど言及されない。
10万年間誰もその場所に近づかず気付かず、もし気付いても決して掘り起こさないことが安全を守る条件だというが、まずそれ以前にそれほどの長い間、どんな天変地異があるかわからないではないか。たとえ一国内では封じ込めたとしても、他の国で問題が発生すれば影響は免れないだろう。チェルノブイリがそうであったように、残念なことに今、福島原発の事故もそのことを示していないだろうか。撒き散らされ漏れ出した大量の放射性物質は、原発からの距離如何によらず風に乗り海流に運ばれ、日本だけでなく既にもっと広範囲に亘っているかも知れない。このまま進めば果たして10万年後、人類が地球上にまだ今のような形で住んでいるだろうか?

 映像はスタイリッシュで、怖さよりも美的な印象を受ける。原発内部で作業する白い防護服を着た人々を映した場面で流れてきた音楽のイントロを聴き、ん?これは!と思ったらクラフトワークの「放射能」だった。ここで思わずニンマリしてしまった。この映像にこの曲、70年代なら衝撃的だったかもしれないが、2011年の今、この古典的なテクノポップとの組み合わせはなんともレトロというか、、。クラフトワークがベタに似合いすぎるだけに、こう言っては何だがまるでミュージックヴィデオを見ているような気分になった。
この映画の製作は2009年。もし3・11以前に観たらかなり印象が違っていただろう。想像を超える出来事が実際に起き、今その渦中にいる人間にとって10万年後の議論は遠く感じる。しかし同時にその途方もない数字は、捨て場がどこにもない危険なもの、扱ってはならない代物に手を出してしまった取り返しのつかなさに思い至らせ、慄然とする。

2本目は「ミツバチの羽音と地球の回転」。
鎌仲ひとみ監督による日本映画だ。
中国電力が原発建設計画を進めている山口県の上関町田ノ浦。ここからわずか3.5Km先にある住民約500人の小さな島、瀬戸内海に浮かぶ祝島が舞台だ。
 美しい海と自然がもたらす豊かな恵み。そこで暮らす人々の日々の営み。
この島でとれる枇杷や魚や米等々、どれもが美味しそうで食べてみたくなる。
明るく穏やかで、慎ましく幸福に満ちた風景に原発の物々しさはいかにも不似合いだ。
もちろん不似合いなだけでなく、それはこの風景を一変させ、二度と元に戻せなくなるだけの恐ろしい力を持ってもいる。原発が建ち稼働すれば、原子炉を冷やすための海水が取り込まれ熱は海へ放出される。7度上昇した海水が、毎秒190トン海へ流され続ける。それは潮の流れを変え、海の生き物にダメージを与えるのだ。そして、ひとたび事故が起きればどうなるか。この映画は2010年製作だが、2011年の我々は既にそれを知っている。

この島の人々は28年もの間、建設反対を表明し闘い続けてきた。高齢化が進み、毎週行われているデモの参加者はほとんどが年配の人達である。シュプレヒコールも心なしかのんびりしていて思わず笑みを誘う。しかし、役場で職員や警備員とやり合う場面は壮絶だ。女性も男性も一歩も退かず逞しい。夜明けから日没まで毎日通い続ける、埋め立てを阻止するための行動はまさに命がけだ。海上で中国電力の社員と、それぞれの船の上から直接対決する場面は圧巻である。それは彼等の生活の中からじかに発せられる生の言葉だ。
全体から見ればミツバチの羽音ほどに小さなものが、強大な権力と対峙している図かも知れないが、その姿は誇り高く気概にあふれ感動的だ。

映画はまた、スウェーデンで自然エネルギーによる地域の自立に取り組む自治体を紹介する。オーバートオーネオ市では、木質ペレットを使った温水による地域暖房が使われている。ある男性は、「日本は森林があり自然資源が豊富なのに、それを使わないで石油を買い続けている。わけが解らないよ。」と言う。ストックホルムで、風力で充電している電気自動車に乗った男性は、日本では電力が自由化されていないと聞くと驚き、それは変えなきゃだめだと声を大にして言っていた。スウェーデンは12年前から電力市場を開放しており、消費者は電気を選ぶことができるそうだ。
祝島でも、エネルギー自給率を高めて島の生活を守りたいと考えている人がいる。Uターンしてきた山戸孝さんは32歳で島の最年少。彼は反対運動の活動と同時に、原発に依らない自立する道を模索してもいる。
 

福島原発の事故は世界中に波紋を広げ、諸外国で脱原発への動きが勢いを増している。
それは当然の成り行きだと思うが、それでも原発推進派の人達は原発なしで電力不足をどう解決するのかと言うだろう。しかし彼等とて、自身が被爆する事態になることは是としないだろう。確かに国内では、夏に向かって節電が喧伝されているが。
一方で、仮に全ての原発を停止しても、火力や水力で事足りるという意見もある。ただ、これらを増やせば大気汚染や環境破壊の問題が大きくなる。では自然(再生可能)エネルギーはどうか。つまり太陽光、太陽熱、風力、地熱、バイオマス等だが、これらも長所ばかりとは限らずコストの問題や安定的供給の難しさなどがあり、これだけで万事解決という訳には行かないようだ。
こういう時こそ専門家たちには本領発揮してほしいものだ。日本の優れた科学技術を、あらゆる頭脳、知識を総動員して持てるものを全て使って、(持続可能という語はいささか聞き疲れたが)破滅への近道とは別の、新たな方向を提示してくれないだろうか。


被災地から遠く離れた場所で、一見まるで何事もなかったかのように日常を送っている人々。私もその一人だ。しかし、あの日以来確実に何かが変わったのは間違いないだろう。多発する地震と多数の原発があるハイリスクな所に私たちは住んでいる。西日本でも、同じことがいつ起きても不思議ではない。
ただ、強い緊張に長く耐えるのは難しく、考え続けることも時には苦痛だ。それでも逃げずに考え続けるしかないのだろう。この先どんな社会を望み、そのために自分自身がどう生きるのか、どんな選択をするのか。そして今も被災地の人々が大変な状況にあることを忘れず、自分にできることは何なのか考えたいと思う。
                                (2011.7.10 矢車菊 香)